とある金持ちのボンボンで、ヨットが趣味のボベルト・メネスカル(1931〜)は、18歳の時大学に行こうかヨットが趣味なので船に乗れる海軍に行こうか悩んでいた。けれども結局友人でセミプロのギタリストだったカルロス・リラ(1938〜)と2人で、小遣い稼ぎのためにコパカパーナでギター教室を開く事になる。美男子二人がやっていたこの教室は、たちまち女子生徒でいっぱいになり、その中に当時14歳のこれまた金持ちの令嬢がやってきた。そう、彼女こそボサノヴァ黎明期の影の立役者であり、後に「ボサノヴァなんて所詮ブルジョアの戯言よ」と言って一度ボサノヴァと決別し、64年の軍事クーデター以降次々と当時の仲間達がアメリカへ逃げ出す中ブラジルに残って反体制運動を続け、71年パリに亡命後20年近い時を経てメネスカルと和解をするという数奇な運命を辿るとは、この頃にはまだ夢にも思わないだろうナラ・レオン(1929〜86)その人である。だってまだ14歳だもん。
ブラジルといえばどちらかと言うとサンバやカーニバルの方が有名だけど、これは労働階級及び黒人系の人達の為のお祭りであって、この国の支配者層である白人の金持ち達は見向きもしなかった。そればかりかクラシック以外の音楽に対して彼等の親たちは否定的な風潮があった当時だったんだけど、ナラ・レオンの両親はこの点に理解があり、メネスカルとリラとその仲間達は後に「ナラ・レオンのサロン」と呼ばれる事になる彼女の住むアパートに入り浸る事になる。そこに現れたのがメネスカルとパーティでジャムセッションをして意気投合したロナルド・ボスコリである。彼はいわいるリオの「業界人」で、ミュージシャンの知り合いも多かったばかりでなく、妹の(最初の)旦那は作詞家で当時文化交流担当の外交官を努めていたかのヴィニシウス・ジ・モライスだった。「イパネマの娘」の作詞家って言った方が通りがいいかな?そして彼と一緒に当時戯曲「降誕祭のオルフェ」後にフランスで映画化された▼「黒いオルフェ」[DVD]の音楽を担当していたアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン/1927〜1994)が仲間に加わった。ここでリーチ。
そして最後の男はメネスカルとリラが歴史的なギター教室を開いた翌年の1957年に、メネスカル君家で行われたパーティにひよっこりやってきた。「やぁ、ぼくジョアン」あの独特のボソボソとつぶやく魅力的な声でそう自己紹介したかもしれない。それがジョアン・ジルベルト(1931〜)その人である。ロン。
そもそもジョアンはバイーア州ジュアゼイロという北部の田舎町から一旗揚げにリオに出てきて、正確な音程だけが得意の浪々と歌うしがない歌手として活動していた。そんな彼が55年に突如として行方不明になってしまう。その後彼は姉夫婦の家にやっかいになり、2年間毎日ギターを弾き続けて暮らした。そんな彼を見て姉夫婦は彼のアタマがおかしくなってきているのではないかと心配していた。それでもひがな一日中彼はギターを弾き続け、浴室の反響音が気に入ってからは毎日風呂場に籠もった。そんな引き籠もり系の元祖みたいな彼を見て姉夫婦はいよいよ彼はおかしくなったと思い始めた。そんな彼がある日ついにボサノヴァの原型になるスタイルを見つけ、狂喜して浴室から飛び出して目の前で披露し始めたとき、この気の毒な姉夫婦はついにジョアンはアタマがおかしくなったと確信した。
しかしメネスカルは彼の紡ぎ出すパチーダを聴いて確信した。「これこそ俺たちの求めていた音楽だ」と。そしてメネスカルはジョアンをアントニオ・カルロス・ジョビンに紹介した。それまで歌謡音楽の作曲家としてヒット曲を出しながらも、ずっと自分にあった新しいスタイルを模索していた彼は、ジョアンの奏でる音楽を目の当たりにして、その時書きかけでお蔵入りになっていた「シェガ・ジ・サウダージ」を書き上げ、サンバ・カオサンのスターだった▼エリゼッチ・カルドーゾ [CD]に提供する。バックにジョアンのギターが収められたこのアルバムはたちまち評判になった。これがボサノヴァ誕生前夜の出来事だ。
このエリゼッチ・カルドーゾの歌う「シェガ・ジ・サウダージ」はボッサ好き達の間では「ボサノヴァ0号」と呼ばれている。後にアメリカで「ノーモア・ブルース」日本では「想い溢れて」と名づけられたこの曲は、同年ジョアン・ジルベルトが歌ったシングル盤がリリースされ、ここから嵐のように駆け抜けたボサノヴァブームが始まる事になる。
昔から大ざっぱにボサノヴァを説明するときに「JAZZとサンバを混ぜたような音楽だよ」という台詞が使われているけど、これはちょっと違う。いや、かなり違う。確かにJAZZの影響は大きいし、これがなければボサノヴァも生まれなかった事は確かなんだけど、だからって単純にJAZZとサンバを足しただけではボサノヴァにはならない。
そもそもサンバ及びサンバ・カオサンと呼ばれる音楽は、ブラジルの大衆音楽、歌謡曲、演歌的な位置づけにあった。当時のブラジリア計画で出現した中産階級の若者達、いわいるシティーボーイ達は、これら前時代的な音楽に変わる新しい音楽を求めていた。ボサノヴァ以前はアメリカで流行っている曲をカヴァーしたり、あるいは普通にジャズとかを聴いたり演ったりしていた彼等の前に現れたこの新しい音楽は、伝統を受け継ぎつつも都会的なスタイルを提示して大いに受け入れられた。詩の世界もこれまで大仰なロマンスを歌ったりしてきたサンバ・カオサンに変わって、ヴィニシウス・ディ・モライス等が書き上げた詩の世界はセンセーショナルだった。昔の日本でロックを聴くのはおろか、楽器を持つ事がイコール不良の象徴だったみたいに、今までサンバはおろかクラシック以外の音楽には眉をひそめてきた彼等の親の世代達もこれならとボサノヴァを支持した。かくして中産階級の音楽たる「ボサノヴァ」が生れ、ナラのサロン出身者を始め多くのボサノヴァミュージシャンが活躍していた1963年。あの歴史的名曲「イパネマの娘」が発表された。
その娘の名はエロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエス。長い黒髪を持つ15歳の美少女は、イパネマのカフェ「ヴェローゾ」の常連客の間で話題になっていた。同じく常連だったトムとヴィニシスは、彼女をモデルに「イパネマの娘」を書き上げる。彼女はまさか自分の事が歌われているとはつゆ知らずに、このヒット曲を口ずさみながらカフェの前を歩いていたかもしれない。そしてこの時既にブラジルの夢の時代の終了を告げる鐘が鳴っていたことには、誰もまだ気付いていなかった。意外な事だけど、この世界中で300万回以上も演奏されているボサノヴァの名曲は、実はブラジルから生まれた最後のボサノヴァの名曲だったんだ。(次のページへ)
![[DATA]](img/focus_top02.jpg)
![[Book]](img/b00.gif)
![[DVD]](img/b01.gif)
![[CD Album]](img/now.gif)