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小川町、遊んで遊んで立ち飲みして帰ってた毎日

はじめに

小川町にあるお客様先でお仕事をしていた時、定時あたりに小諸そばを食ってました。んで職場に戻るというルーティーン。小腹が空いてたんでしょうね。当時20代。まだまだ食っても食っても太らない時期でした。
確かネギが入れ放題だったのでガンガン入れて食べており、プロジェクトルームに戻ったら「蕎麦臭い、ネギ臭い」とよく言われたものです。

そのプロジェクトで僕は販売物流のチームリーダーをしていたので、結構大変でした。僕自身コンサル・設計もしますけれど部下(と言うほど年齢離れてないんですけれど)の面倒や他のチームとの調整とかも結構大変でしてね、まぁまぁ残業デフォだった訳です。

定例会議とか苦手でした。僕のチームはお客様と何を話すかの根回ししてるのでただのパフォーマンスなのですけど、お客様の中で工場から来てる人の口調が厳しくて…
「やっぱり工場ではこの位気性が荒くないとやってけ無いのだな」なんて思った物です(偏見)

まぁ、プロジェクト最後の方は一緒に良く飲む仲になるのですけど。

色々な思い出

みんなでFF

このプロジェクトは本当に色んな思い出がありまして、プロジェクトメンバーでFF11やったりしてました。仕事終わってからまたFF11の世界でみんなに再会すると言う。
プライベートも(場合によっては土日も)みんなでゲームしてましたね。今では「プライベートまで上司と一緒にゲームなんてしたくないです」ってなるでしょうし、そう言うのは無かったと思うのですが、今では考えられないかも知れませんね。

何時間やったかは覚えてないですねぇ。あの頃のMMORPGって本当にリアル時間泥棒だったし火力のインフレとかもなくて良かった思い出があります。

ほったらかし飲み会

あとは、週に2回くらい予め8〜10人位で居酒屋を予約しておいて、「行きたいやつだけ行く。幹事は俺がやるけど店は取ってあるから仕事終わったら人から先に行って勝手に飲んでて良いよ!」と言う事とかやってましたね。
「今日飲もうぜ」って言う強制でもなく、「ちょっと波秋さん飲みませんか?」と言う相談でもなく、ただただ”場”を提供しておくだけと言う。”ほったらかし”。
それでも色んな人と飲んでいた気がしますね。
流石に割り勘にしないと僕のお財布が死んじゃうので割り勘でしたけれど、僕がまだ残業してて「まだ来ないんですかー!みんなもう出来上がってますよ、早く来てくださいー」なんて電話がかかってきた時はなんか嬉しかったですね。
今はコロナ禍なので流石に居酒屋で飲むって事自体難しいですけれど、この「とりあえず場だけ取っておいて、適当に集まってだらだら飲む」ってのは当時結構使った技だったりします。

4号機パチスロ

あとパチスロが俗に言う”爆裂機”の時代だったのでみんなで行ったりもしてましたね。
当時の神田はパチスロ屋が沢山ありました。本当に沢山あったんですよ。5階建て(6階建て?)のパチスロビルみたいなのもあったりしまして。

当時は、夜の20時30から打ち始めても数万円勝てる時代だったんですよ(もちろん負ける時はガッツリ負けますが)、なので仕事帰りにスロット好きのメンバーでパチスロしてましたね。
”爆裂機”と書いたように、変な話100万円を1日で勝つことができるようなケースも(ごく稀にですが)あったので、本当に色々この時代のスロットで人生が変わってしまった人も多いのではないでしょうか?

4号機ミリオンゴッドの思い出

 

その後しばらくしてそのあたりを散歩してたらほとんどの店が無くなってましたけどね。
本当に当時は凄かった…。

寝坊強制対策

どうしても朝が弱くて寝坊が多かった人がいたんですけれど、エンジニアとしては有能だったんですよね。ただ朝が弱いだけ。
で、翌日の朝イチに大事な会議があって、その人をどうしても遅刻なしに出席させるために、お客様近くのホテルをツインで取って宿泊したりしました。僕は朝は起きれるタイプだったので、ツインで僕が起きて大声で起こして事なきを得ました。
これ何回か使いましたね。飲み会の後とかじゃなくて深夜残業ってケースが多かったので会社の経費で落としてたりしました。(ちなみに、泊まりと決まったら、その日はその人と思う存分飲みました)

大泉洋を知った

”水曜どうでしょう”をみて大泉洋さんの存在を知ったのもこのプロジェクトの頃でしたね。詳しくは他のエントリーに書いてありますが、北海道出身の僕が大泉洋の存在を知ったのはかなり後でした。それから思いっきりハマりましたね。劇団、TEAM NACSを知ることもできましたし、実際に舞台を見に行くこともできました。きっかけって大事ですね。

大泉洋を知った

 

美味しい出張

このお客様は医薬関係でして医薬の仕事を勉強する良いきっかけになりましたし、そのノウハウは今でも通用しております。
あと同じような業界のプロジェクトをしている関西のエンジニアから『コンサルに来て欲しい』って言われて新人に近い後輩を連れて大阪に一泊出張に行った事もありました。
「え?定時内に移動してもいいんすか?(こう言う移動って定時後じゃないんですか?)」みたいな後輩を見てて若き日の自分を思い出しましたね。
何事も経験ですからね。ちなみにその後輩がメインで作業してたので公私混同ではないですよ(あと同性です。念の為)

神田(小川町)にも行きつけはあった。

思い出は尽きないです。

僕自身まだ若かったし、周りのメンバーも若かったらですからね。プロジェクトメンバーの年齢層が比較的低かったと思います。昔はそう言うプロジェクト結構があったような気がします。

年配のメンバーから『くっちゃべって無いで手を動かせ!』と言う説教も食らったのも良い思い出です。

また、その年配のメンバーも神田に行きつけの店を作っておりみんなでその店に行った時にはその方の意外な一面を見る事が出来ました。

そんな中、仕事が早く終わってもパチンコしても、みんなで飲みに行かなかった日は、仲の良い人と二人でお客様のプロジェクトルームの近くの立ち飲み屋さんに行ってました。結局飲んでるんですけれど。

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このプロジェクトルーム、JRの駅で言うと神田が最寄り駅になるんですけれど、僕は都営新宿線の小川町から帰ってまして、確か京王線直通になっている時間があってそれに乗ると1本で帰れるのでその電車の最後の時間まで飲んでいたような思い出があります。

顔のワイシャツの店のすぐ近くです。

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飲んでたら、実は「はじめに」で書いた小諸そばの店長もその立ち飲み屋の常連だったりして結構面白かったですね。
(「あー、よく17時くらいにかけ蕎麦食べにくる人ですよね!」とか言われました)

立ち飲み屋ってのは基本的に料理(惣菜)はすでに完成しており、ラッピングされてます。
で、100円とか200円とかの価格設定がされていて後で会計するのではなくその場での会計だったような気がします。そうすると後でトラブルとか無いですからね。

ほぼ僕1人か、仲の良い1人と。多くてもマックスで3名くらいで行ってました。店も広くないので占領するのはカッコ悪いですからね、人数多かったら居酒屋行けば良いのですから。

個人的にはマカロニサラダとか味付け煮卵とか食べてたような気がします。

終わりに

1000円でベロベロになる位飲食できる…今で言う『せんべろ』ですね。
時代的にまだスマホもない時代でしたし店内で喫煙も当たり前でした。結構駅近にそう言う店があったんですよね。

個人的には『〆の一軒』って感じでした。長居はしなかったけどとにかく通ってたので結構知り合い増えた思い出があります。

今もあるのかな?こういう店。
コロナ禍の時代なのでかなり厳しいと思いますが、またこう言う店が増えると良いなぁと思いました。

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