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認知の歪み ー 俺には社会がどのように見える?

Youtubeにはお金や再生数に取り憑かれたテレビのまねごとをする動画も多いが、色々と調べると様々なクリエイターの発表の場であることも分かる。ちなみにそう言う数あるチャンネルの中で僕にとって有益な動画の中で数年前からあるチャンネルを追っている。基本的な更新は火曜と金曜。いらすとやなどを巧みに使い風刺を取り入れた作品が多いのが特徴。ここ数年は年末に1話完結ではなくて続き物の大作を出してくる。

2022年の年末に出された作品『金融義賊』。この作品には痺れた。見続けていくうちに「これは僕のためにある作品なのでは?」と思って見ていた。但し、おそらく(この作者の作風上)最終回は主人公の思い通り行かないだろうな?と思って見続けていた。
実際に格差社会に対する怒りをモチーフにしたと思われた作品は主人公の認知の歪みによる独り相撲であった事で幕を閉じる。叙述トリックを使った作品であった。

なるほど、格差社会は「生まれながらに裕福な家庭に恵まれた人は努力もせずに欲しいものが買えて不自由せずに楽な人生を送っているはず」という”思い込み”から、自分を相対的に底辺の人間だと思い込んで憎んでしまう。
……実を言うと僕もこの意識だ。

なので、やはり『金融義賊』は僕のためにあった作品だと言える。見て良かった。バッドエンドを含めて、だ。

僕はけっして恵まれた家庭環境では無かった。
でも、それをもって『ナニクソ!』とは思った記憶がない。そんなものだと思っていた。なんて言うか比較する対象のアイテム(今で言うとスマホやゲーム機・ソフトなど)が現代の生活と比べてあまりなかったからかもしれない。
当時、僕は基本的に人とコミュニケーションをとるのが苦手だった。俗にいう『コミュ障』だ。幼なじみの友達とばかり遊んでいた。

ただ、高校に進学(家庭の金銭的な面もあり、早く就職して自立したかったので工業高校を選択)した時に偶然拾ってもらったグループに属する事ができた。

今考えるとそのグループ自体は仲が良いのだが皆、家庭環境が恵まれているわけでは無かった。実にグループの8割は(様々な理由で)片親だ。色々な理由があるが家庭環境が恵まれたものでは無かったのが結束を強めたのかも知れない。ただただ、みんなそれを『社会の境遇のせい』にする事は全くなかった。

もともとプログラムを書いたりするのは苦ではなく、むしろ好きな方だったので当時流行っていたシステムエンジニアの職を選ぶことにした。穿った考え方だが僕はコンピュータープログラマーとしては結構な能力を持っていると自負していた。同じくして仲間を連れて音楽や舞台をやった方が良かったが上京を機に彼らを一気に上京させるためには僕には責任が重すぎた。やりたいことはいくらでもあった。

その後、僕は無事システムエンジニアとして一流企業に高卒で合格した。確か求人率は2倍くらいだったハズだ。高卒で合格と書いたが、勿論高卒枠と学卒枠は別に分かれているので特段頭が良かったわけではなく『高卒としてはOKなレベル』だっただけであろう。

入社してからはとにかく頑張った。誰よりも努力して着いていけるようにプライベートの時間を使って身につけた。
それには『格差社会に対する実力による低学歴(低賃金)の逆転』と言う大義が自分の中にはあった。
それと共に自分の中の”知的好奇心”がどんどんと強くなっていく。

中学生の頃に母親に言われた『権利の主張と義務の遂行』と言う教えと高校時代のグループの『無いものは作る』と言う哲学が僕の根底に強く残っていた。これは今でも変わっていない。

上京して僕はエンジニアとして若いなりにもプライベートの時間を犠牲にしてでも勉強した、努力した。

しかし、誰でも同じだけ努力すれば同じ結果が出るかはわからない。
例えば僕が100時間勉強(努力)してスキルを身につけられたとして、同じ時間をかけても身につかない人も居るであろうし、逆に50時間でスキルを身につけられる人も居る。

自分で言うのも変な話だが、おそらく”地頭”と言うのがあったのかも知れない。

そこまでは良かった。40を超えて独身の同期は『俺たちには種を残さない契約を神様と結んだんだよ』と言って笑っていた。僕と歳を同じくして高卒で部長になったのは弊社としてはかなり珍しい部類に入る。彼には色々と助けてもらったし、人一倍苦労しているので『なるべくしてなったな』と思ったのである。
実に僕の同期でまだこの会社に残っている人の独身率は驚くほど高い。

さて、この年になって今更な話で恐縮だが、ある火消しのプロジェクトで新人の男性と2年目の女性と組むことにした。新人同士の楽しそうな飲み会の話を翌日の朝や昼食の時の雑談で聴きながら「大学生で僕が勤めるような会社に入れるのはある程度生まれた時の親ガチャ的なものがあるだろう。お互いに自分にきちんとしたパートナーが居ながらそれでも仲良く話している。学卒になるとこういう男女間も社交性も身につけているのか?」なんて思っていた。
所謂、上級国民コースとでも言えば良いだろうか?

しかしながら自分だって高卒で倍率2倍の世界で入社した分際で(ガチャなんて)言えるわけでは無い。

それなのに僕は若者のたちの発言から得る事ができる”事実”の一側面だけを見て「若くして毎日飲み会をしたり休日はゴルフなど…。お金あるなぁうらやましいなぁ」ばかり考えていた。正直に言うと妬んでいた。ボーナスの額面を見た時に嫉妬は肥大した。俺が死に物狂いでがんばってきた経験と入社一年目の院卒の額がそんなに変わらないとは……。

僕のテンポラリーチームは新人の男性と2年目の才女で構成れていた。僕はと言えば二回り上の年齢だ。
その妬みは”事実”の一側面のだけをベースにそれ以外の部分は僕の中だけで勝手に”想像”で勝手に補い僻みが倍増していただけなんだろう。
いや、僻みを自分で勝手に”(歪んだ方向に)想像”して補完させ、その『(素晴らしい)思い込みの生活』と自分を比べて妬みを倍増させていたのだ。
実に滑稽である。

僕は基本的に一人で生きていけるつもりだったが、そんな楽しそうな若者たちの会話を毎日のように聞くことで僻みを倍増させて自分を相対的に孤独と思い込む。”誰かと比較することにより”相対性な評価が生まれる。今回はそのギャップが強かった。2回りと言う年齢が一番のネックだ。


仕事はそつなくこなした。僕がいないとプロジェクトが止まるような状況にもなった。これは奢りではない。僕だけが毎日”考えて、考えて、考えて”出した答えだ。僕は特に資料化をして、若手に指示を出すようにしていた。でも、何かが足りない……。

自分は”精神的に恵まれてないのだな”、と思った。
これは自分では分からなかった。『金融義賊』の最終回のコメント欄に書いてあり「なるほど、これか」と腑に落ちた感じがする。
なんか休日や暇な時間を潰す術が僕には驚くほど無いのもこれが原因なのかもしれない。
もちろん金銭的に恵まれているか?と言えば決してそんな事は無い。
金銭的に恵まれていれば、ある程度楽しい思いが出来るのかも知れない。言い方は悪いが「ある程度のものは金で買える」のである。

これをマズローの欲求5段階説に当てはめると自分はまだ低次の欲求の階層にいる。
ちなみに、SNSなどでフォロワー数やいいね数で承認欲求を満たす人々は高次の欲求の階層だ。低次の欲求(ライフラインの確保、衣食住の確保、職場や友人が十分に満たされている)を全て満たした上で次に発生する欲求である。

……いやこれすら違うかも知れない。例えば”いいね”欲しさに高級な料理やブランドの服などを借金などをして買ったが、その借金のせいで実際の生活が困窮していたとしたら(そしてそのお金を性的なサービスで埋めようとしていたら?)……きっとマズローの欲求の5段階説はすでに今の時代では成り立たないのかもしれない。



『金融義賊』という作品では最終話のタイトルは「お前には社会がどう見える?」である。

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政治はその国の今の民度の反映結果だ。そんなの昔から言われてる。
親の金で最新のiPhoneを買ってもらってそのiPhoneでSNSを使って承認欲求を満たし、あげくに「もう終わりだよこの国」なんてネットで書いている社会。そんな社会は「考えない、手を動かさない人」と「考えて手を動かして富を得る人」の二極化になるんだろうね。
弱者は弱者の身分を盾に持って上に楯突く。失礼だが、五体満足である以上強者になれる可能性だって持っている。「勉強」と言うコスパの良い趣味に「意味ねー」と言っている段階でお前らは終わりだ。
この世の中は必要以上に混沌としている。ここ数年その傾向が強くなってきている。
他人のせいばかりにしないで自分の身は自分で守れ、バカ共め、クタバレ。

僕から見える社会とかそんなものなのかもしれない。

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