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『たま』と僕

はじめに〜ビートルズばっか聴いてた僕

中学生までは僕は音楽にほとんど興味は無かった。
いや、これは正しくは無いか。僕は中学生まではビートルズ一辺倒だったのだ。

音楽に興味が無かった僕にビートルズを教えてくれたのは僕が幼稚園に入る前からの友人。なぜ彼がビートルズを好きになったのかは全く知らない。でも、教えてもらった。当時、夏休みとかになると日本テレビ系列の午前中ではアニメをやっていたように記憶する。僕が住む小樽は北海道テレビ(HTV)である。

そんな時にやっていたアニメで強烈に覚えているのは『トムとジェリー』と『アニメ・ザ・ビートルズ』だった。
トムとジェリーに関しては基本3本立てとなっており真ん中の2本目はトムとジェリーとは関係ないアニメがやっていた。僕が好きだったのは『未来のテレビ』や『未来の車』みたいな未来シリーズ。本当に面白かったなぁ。

……それは置いておいてビートルズである。これもアニメ。んでアニメ中にビートルズの曲をやるのだけれどアニメのリッピングが完璧だったのだ。簡単に言うとアニメ上の口の動きと音楽がピッタリと合っていた。今では当たり前で逆に不自然だと突っ込まれるポイントになるのかも知れないが、当時は驚いた物である。

ここまでが前段。
関係のない話しですまない。僕の音楽のバックボーンだと思っていただければ幸いである。

ある年末。TBS系列でとんでもない番組を見た。番組名は『イカすバンド天国』。通称“イカ天”である。その日は『グランドイカ天大賞』で選ばれたのは『たま』。演目は『さよなら人類』だった。
驚いた。こんなにすげー音楽が日本にあるのか!と驚いた。
1975年生まれの僕の世代の中学生と言えばBOØWYである。カッコいい音楽はBOØWYなのだ。
しかし、そういうのはほとんど聞いてなかった。
ビートルズで音楽の地盤を身につけてから初めて“驚いた”バンドは『たま』だった。

翌日、その友人と会話する。
「昨日観た?とんでもない音楽を聴いたぞ!」と。
友人も見ていたらしく「すごいな!」と話しあった記憶がある。

これが僕と『たま』との出会い。

高校時代、『しおしおたま』との出会い

その後、中学を卒業した僕は小樽の工業高校に進学した。科は違ったが幼少期からの友人も同じ工業高校に進学。
僕は当時、極度の人見知りで一歩間違ってたら今で言う『不登校からのニート』になっていただろう。間違いなく。

そんな中、クラスの友人に『拾ってもらった』。多分この表現が僕的にはしっくりくる。いじめられるわけでも無かったしクラスのカーストの頂点でも底辺でもない、”そういうのに属さない人達”。
僕の何に興味を持ったのかわからないけれど虐められる事もなくその軍団に属した。

その友人の実家は小樽よりももっと田舎にあったため小樽の学校の近くに下宿して住んでおり、その友人の部屋は僕らの溜まり場になった。

そして、そこにあったのだ。
『たま』のインディーズレコードである“しおしおたま”が。
小樽という北海道の小さな街の友人の部屋にあったのだ。

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あ、レコードでしたよ。

「え?君も『たま』聞くの?」なんて話はほとんどしなかったように記憶する。
当たり前のようにカセットテープにダビングしてもらい毎日聴いてた。

余談だが、このレコードはナゴムレコードと言うインディーズレーベルで主催者はケラ。
今の人に言うなら劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチと言った方が伝わるか。とにかく赤字続きだったナゴムレコードはこの“しおしおたま”で赤字を一気に解消し、亡くなった父親の墓を立てる事が出来たと聞く。
人生とはわからないものだ。

バンドやろうぜ!

実は時を同じくして僕たちは楽器を弄っていた。バンドみたいなのをやっていたのだ。
よって必然的に大好きな『たま』の音楽をコピーすることとなる。

ちなみに僕らは同時にパソコンでプログラムも書いており「バンドやるかプログラマーになるか?」と高校時代に悩んでいたくらいである。スポーツは一切しなかったけれどなんか色々とやっていた。

僕は楽器としては主に鍵盤を担当した。
高校生にシンセサイザーなんて買うお金は無い。鍵盤数の多いカシオトーンで勝負していた。

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こう言う本が本当に売ってました

そのうちに友人たちとバイト代を集めてアコーディオンを買ったりマンドリンを買ったり、使わなくなったベースのフレットを全部抜いて擬似フレットレスベースを作ったりした。『たま』は一般的なバンドの楽器だけでなく、色々な楽器を使っておりこれを機に練習を行なったのは良い思い出だ。マンドリンはギターの人よりもベースの人の方が上手かったというのも不思議な思い出である。

また、高校時代に出来た友人の友人の繋がりで足踏みオルガンを弾く経験にも恵まれた。

今では時効だが(そうさせていただきたい)、夏休みに高校に潜入して軽音楽部の楽器をお借りしたのもいい思い出である(きちんと返却してますよ)

とは言え『たま』のコピーはあくまでも娯楽。
メインは友人が作詞作曲した曲をみんなで編曲して演奏していた。

今思えば人生で一番鍵盤と向き合った時期かもしれない。コードとかの種類は最低限しか弾けなかったが一番頑張っていた。
ちなみに僕は左利きである。
鍵盤と言うのは左手はベース音を弾きながら右手でメロディーを弾くのが一般的な楽器なのだが、左手で色々とアレンジできたのは今でも良い経験になったと思っている。

当時は本当に『たま』を研究していて”たまの本”と言う本に載っていた“マリンバ”と言う歌詞からメロディーを予想したり(これがズバッと当たっていてびっくりした)、ライブに行った時に前奏だけ聴いて『あたまの膨れた子供たち』だ(もちろんこれも歌詞を読んだだけで実際に聴いたことは無かった)と思ったものだ。

今思っても「なんでわかったんだろ?」と言った感じである。

3人体制と『たま』の終わり

その後、僕はプログラムを生業とすべく就職した。会社が関東にあったのでそのタイミングで北海道から上京。
そこからはもっと色々な音楽に触れていくことになる。
当時、1990年代は本当に”音楽がブーム”だった時代だ。いろんなミュージシャンの音楽を浴びるように聴いた。僕が個人的につまらないと思ったバンドはそれ以上聞かなかったがそれ以上に沢山の素晴らしいミュージシャンと出会うことが出来た。

そんな中、もちろん『たま』も追っていたのだけど、柳原幼一郎さんが脱退してしまった。他のメンバーは『たま』に属しながらもソロアルバムを別に出していたが柳原さんにはそれが出来なかったらしい。不器用と言えば不器用である。
3人になった『たま』はやはりパワーダウンを感じざるを得なかった。過去の曲をやろうとも柳原さんの曲をやるためには客演を入れるか他のメンバーが柳原さんのパートを演奏しないといけない。ただ”柳原さんの声”は代替がきかないのだ。

個人個人、ソロで活動をしながら3人体制の『たま』を維持してきていたが、2003年にあっさりと解散した。

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3人でも魅力的だったのですが…。

たま、解散の理由(超推測)

確実に今のミュージシャンに影響を与えた『たま』

さて、令和になってからもTVでは音楽番組をやっている。そう言う番組は無くなっていく一方だと思っていたがこれは嬉しい。
それもミュージシャンがカラオケ演奏で歌うような歌番組だけではなく、現在第一線で活躍しているミュージシャンを深堀りするような番組も増えてきた。

そんな中、必然というか『たま』の名前が色々なミュージシャンの口から出てきている。やはり『たま』はイロモノのバンドではなくて、しっかりとした音楽性と高い演奏能力を持ったバンドである事が令和に証明されているのはリアルタイムで追ってきた世代としては嬉しい限りである。

『たま』は”さよなら人類”だけでは無い。一回アルバムを通して聴くとそれぞれのメンバーの作詞作曲スキルに驚くはずだ。

「とりあえず一枚」と問われたとしたら断然『ひるね』と言うアルバムをお勧めする。“さよなら人類”は入っていないがきっとどれかの曲が刺さると思うのだ。

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超名盤!

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