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制限の中で楽しむ

2025年はAI全盛の年でした。誰しもが(ある程度の知識があれば)「モノを作れる」時代。画像も動画も音楽も小説もある程度のクオリティーのモノをAIを使う事によって作る事ができるようになりました(質や倫理観は別とします)

さらにそれを産み出す元のコンピューターの性能も鰻登りになっていますね。
昔から”ムーアの法則”と言うコンピューターの進化グラフがありますが、最近はGPUの効率的活用でグラフは指数関数的になっている気がしてます。昔から2045年に技術的特異点(=シンギュラリティー。人間の能力よりコンピューターの能力が高くなる)が来ると言われていましたが思ったよりも早く来そうですね。

……と言う前置きですが本題は「まぁ性能に余裕があればモノを作るのって結構イージーじゃね?」って事です。

昔はゲームを作るのにも制限が沢山ありました。メモリも少ない。CPUの性能は貧弱。でも、そういう制限があったからこそ後世に語りつがれる名作も産まれたのだなって勝手に思っています。思い出補正ならすいません。

音楽もPCでソフトを立ち上げてメモリが許す限りどれだけでもトラックを増やせるという時代ではなく、通常4トラック、多くても8トラック位でした。テープに録音する仕組み(MTRと言う機械を使っていました)なので「ここから撮り直し」とかもとても面倒だった思い出があります。プロのミュージシャンもほとんど状況は一緒だったと思います。

“パソコンでゲームを作る”、”MTRで曲を録音する”と言う書き方をしていますが、世の中のスポーツなどにも”レギュレーション”と言うものがあります。
制限の中でどれだけ自分が思っているものを作れるか?

例えは悪いですが日本ではパチンコパチスロは合法です(換金はグレー)。ギャンブル性の高い台を作ると”射幸心を煽る”と国からお達しが出て規制が入ります。「今後作る時はxxと言う制限入れてね」みたいな感じでレギュレーションが厳しくなったって感じですね。
でも、”法の目を突く”では無いですけれど、メーカーはそのレギュレーションをかわして射倖心が高い台を作り始める。そしてまた規制……と、この業界はイタチごっこを繰り返しています。

これはどのような遊びにも言えるのかも知れませんし、クリエイターにも言えるのかも知れません。
「ルールの中でどれだけ有利に立ち回れるか」って観点もありますし、「制限された中でいかに工夫して自分が表現したいものを表現するか」って観点もあると思います。

世の中は便利、コスパ、タイパ……と言う時代に変遷していると思います。恐らくそれは思い出補正を抜いてもほぼどの時代も一緒。相対的に考えると便利になる一方だと。僕の学生時代も一昔前の世代の人から見たら「恵まれてるなー」と思われていると思います。

Ai shigoto makaseru

しかし「何やってもいいよー」って中からモノを作るよりも「おやつは何を買ってもいいけれど総額300円までね」とか「音楽を作るのは自由だけれども4和音までね」みたいに制限があった方が”工夫”ってものが産まれて数十年経って「あれって、当時どうやって作ったの?オーパーツじゃない?」って感じに残るのかも知れません。

世の中は便利になる方向に向かう一方で「考える、工夫する、配られたカードで戦う」と言う制限を失っています。
AIとかに頼る世の中を否定する訳では無いですが、このままでは「工夫して考える」と言う発展はもしかしたら頭打ちになってしまうかもしれません。

これに関してこそ貧富とか関係なく平等な舞台で発生しているのでは?と思っています。

regress or progress

人間はコンピューターと言う”自分の外部記憶装置”や”自分のアシスタント”と言う叡知を享受したタイミングから緩やかに退化しているのかも知れませんね。

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